楷塾について

塾長挨拶

楷の樹と呼ばれている木があります

日本では「孔子の木」とも呼ばれています。孔子が曲阜に没した後、弟子たちがそこに廟をたてると、まもなく廟の傍らにその樹が緑の新芽を吹き出したそうです 昔から学者とか先生とか呼ばれた人には、いつでも常識の彼方にひそむ真理を見つけ出そうと、七転八倒をくりかえしたあげく妻や子と別れ、苦悶の表情で一生を閉じています。

ちょっと異なりますが音楽の教科書にのっていたベートウベンの顔や、ダンテの「考える人」を思い浮かべてみて下さいしかし、ヨーロッパの先哲たちがこうして常識を超越したところに高邁な真理を追究したのにたいし、どういうわけだかアジアの先哲たちは、 わたしたちを戒めの鎖でがんじがらめにしている常識に目を向けています。例えば孔子は世間の常識の下に隠されている何かを見つけ出そうと頑張っています。 高い山を見上げず自分の足元を見つめているのです。 本当はそうではなかったのですが、あっちこっちをほっつき歩きながら、人間どうしの愛や道徳を説いていたのです。

そんなわけですから論語のなかに見え隠れするものは、そんなに小難しいことではなく理想を抱きながらそれがちっとも達成されない青年と同じように、少しも志を得られない真摯な学匠の姿だけです。

中国人は日本人のように樹にしめ縄を張って御神木にしたり拝んだりはしません。しかしどういうものかその樹が占める広大な木陰には、 うだるような真夏ですら人っ子一人入りません。いつ見ても演じられていない能舞台のように、静かで伽藍としているのです。

しかし中国人のなかにもお上りさんや物見高い人がいないわけではありません。キョロキョロっと辺りを見まわすとそこから兎のように飛び出し、その樹皮に触りに走るのです。しかしそこから飛び出した人はダルマサンガコロンダでもしているように、その樹に触れるか触れないかそういうスピードでその樹の膚に触れると、今度は反転して脱兎のごとく元いた場所に戻るのです。

孔子廟の楷の木はヤマトミズキのように樹形が美しく、静寂の森の主を彷彿させるタブノキの凄味と暗さをただよわせていました。廟を守る僧によるとそれがいかにも中国風で可笑しいのですが、その樹はいつでも人を寄せつけない気を発しているというのです。

「大人は儒教の祖で詩人ですぞ…」
意訳すると「学問の神様ですよ」というわけである。学問の神様なら静かな所を好むのは当たり前だろう、ともとれます。 詩人という言葉の響きには日本人にはとても理解できない特別な意味が彼ら中国人の心の中には横たわっています。言語を透徹する者は躾すらおのずから身につける。言葉を正しく使える者は自分自身をも正しく律することができる。現代と同じ言葉の乱れのことでしょう。

楷の木はウルシ科の樹です。ちょうどその時はその樹が時季をえて、バケツに溶かした赤や黄やオレンジ色の絵具を頭のてっぺんからでも浴びたように 激しく紅葉していました。煙か塵芥か、泥で造られた家々の屋根の向こうに黄土色にけぶる天際が臨めました。水を浴びた爬虫類のように、銀色に蛇行したものも臨めます。 ……揚子江だろうか。

私は僧に媚びてその樹の種をもらいました。残念ながら我が家には土の欠けらすらありません。私は何度も鉢を植え替えました。今は大型の発泡スチロールの箱に収まっており、物干し台の上で5メートルほどに育っています。

楷塾について

楷塾は躾の塾です

躾という語には「礼儀作法を身につける」という意味があります。それに加えて、身ごもった女性の姿を模してしかもそこに美しさまで見出した字であり、また裁縫の重要な下準備となる仮縫い「しつけ」から音をとったものでもあり・・・と、実は様々な意味が込められた素敵な語です。

私が仕事をするうえで念頭としていることは自分が何かをやろうと思ったときに全力を注げるような土台となる今を過ごせているかどうかです。「サボるのはいいけど、自分としてはそれでいいの?」と生徒たちにもよく問いかけますが、その時にはたらく「いえ、良くないです」と言えるプライドは子どもたちの本心だと思っています。私は子どもたちのそれを尊重した日々を過ごさせてやりたいと思っています。

よく言われることに「楷塾の生徒はよく躾けられていていいですね。」というものがあります。自分がやらなければと思うことを遂行するという難儀なものに挑み続ける素敵な子どもたちに育ってくれているからです。

子どもたちの集う場所

チェ・ゲバラ、ルチアーノ・パヴァロッティ、吉田松陰・・・。私の大好きな人たちはみんな愛が溢れています。きっと愛することが生き甲斐なんだろうと思います。その結果かどの方も人が集う場所を作り、成長できる場を設けています。

楷塾の第一教室は自宅も兼ねていて、生徒にはいつ来てもいいと伝えてあります。学校へ行きたくない朝、親とケンカした日曜日、家出してしまった夜中など、そんな子どもたちもまぁまぁいました。また、受験生は朝の9時から夜の11時あたりまで勉強してる子たちもいます。卒業生もときたまふらっと現れる子や子ども連れで遊ぶに来てくれる子、煮詰まると「先生、お風呂行きましょう!」などと電話してきてくれる子などもいます。

このようにいつでも気兼ねなく行っていい、いつでも競い合える戦友がいる、それが代々引き継がれ「憧れのあの人が座っていた席」の争奪をする、そんな子どもたちを目にするとこの場所は大事にしなければならないと思えます。

無学年生の理由の1つ

これまでの10年で1人だけ国語が全くできないのにニコニコしながら数学の難問を読み解く子がいました。あのワクワクして問題を解いている感じが僕は大好きでした。受験における彼の対策は直球勝負で、圧倒的な数学力をつけさせることでした。

楷塾では学習において無学年生をとっています。つまり、得意なものは徹底的に伸ばせばいいという考えです。小4で中学受験の国語問題を解いている子もいれば、小6で中2の数学を解いている子も、中学生で英検、漢検2級(高卒レベル)をとる子など様々います。

これは僕の考えですが、大人になってからの費用対効果を考えながら行う勉強は全くおもしろみがありません。現に僕は会社の成長を考えてワクワクしながらMBIをどこかで取れないか検討しましたが、調べるほど仕事との兼ね合い、お金の工面のことがちらついて全く楽しくありませんでした。この感覚は受験勉強で必死になっていた頃や大学院でこれでもかと研究にのめり込んでいた頃にはなかったものです。あのときの勉強にはまるで重い重い扉を開くような、微かに見える光にふらふらになりながら進んでいくような辛さと引き換えに、稲妻が落ちたような体がしびれる感動があったものです。純粋に勉学を楽しむには没頭できる環境が必要なのだと思います。

中学受験の子が宮沢賢治などの詩を暗唱することはその時は意味がないかもしれませんが、大人になったときに考えさせられる言葉がたくさん残ります。好きなことを好きなだけ、ついでにしといた方がいいこともちょっとずつでも勉強する経験を子どもたちにさせてやりたいと思っています。

基本は国語力

手をとめてる子どもを見つけた時
私「どうした?」
生徒「よくわからない」
私「どこがわからない?」
生徒「問題がわからない」
私「まず問題読もう!」
生徒「読んだけどわからない」
私「じゃーもう一回読もう!」 ←これを繰り返す場合も
生徒「もう一回読んだけどわからない」
私「どこがわからなかった?」
生徒「ここの意味がよくわからない」 ←実は読めてなかったことが判明
私「あーここね。そういえば前にさ、ここにあるようなこんな経験して・・・」
生徒「先生それダメじゃん!笑」
私「そうなんよ!ってことはさ、この問題の主人公も・・・」
生徒「あー!たしかに!ってことは・・・」

これは国語に限らずどの教科でもあるシーンです。解答というものは子どもにとっても想像を超えるほどのものではないことがわかります。しかし、現代の子は鳥の音も風の音も、雨のにおいも季節の声も、あまり体験できてこなかったことから直接イメージができないものもあるようです。ここで大事なのが記憶の切り張りです。

例えば「夏の夜の田んぼ」。
夏だけども土が多いので暑くない+水が張ってる+月が水に反射する+虫がいる
=ちょっと涼しくて、けっこう明るくて、けっこう騒がしい夜

とできるわけです。楷塾の生徒が繰り返しさせられているのがこのtry and errorです。子どもたちにとっては想像になるので全く見当違いな組み合わせを作ることもありますが、つじつまが合うものを見つけるとどこかワクワクしながら熱中できてしまう作業です。

最新の技術をつくりあげるエンジニアも、営業成績1位の営業マンも、万人が耳にする楽曲の作者も、このtry and errorを繰り返す人たちです。楷塾の国語力の一部はここにあります。

AI教材を使った勉強方法

タブレット型端末を使ったAI教材を用いる勉強方法は予備校も導入するなど徐々に活発になってきています。中学、高校でも補助教材またはドリルとして使う学校もあります。では、そのメリットとデメリットは何なのでしょうか。

メリット

  • 問題数を解くほどにAIが抽出する問題が自分にマッチしてくる。
  • 苦手な問題の克服には最高のドリルになる。
  • ちょっとした隙間時間、勉強のきっかけ、一日のまとめなど節目節目に便利に使える。
  • 子どもたちが行った内容は担当の先生などが見ることができる。 etc…

デメリット

  • 良い問題ほど打ち込めてしまうため時間の管理が難しくなる。
  • 適当に問題を解く子どもには適当に勉強したツールにできてしまう。
  • 必ずしも生徒の実力がわかっている先生が指導をしている訳ではない。
  • 担当の先生による子どもの成長に見合った問題選びなど微調整が行いにくい。 etc…

AIを用いた教材はこれまでになかった方法での学習ができますが、塾の先生の力が発揮されず子どもの肌感覚に合うものになるのかわからない側面もあります。それぞれが合致していて最大限の力の発揮となるのかが要です。

楷塾でもAI教材を取り入れます。それは日頃より生徒たちを見てきたため、個々に合致するプログラムをそれぞれに提供できる自負があるためです。サボる子にはサボる用の、お調子者にはお調子者用の、地道な子には地道な子の用のやり方を心がけてきた私たちだからこそ使いこなせたときに子どもたち大きな化学変化を起こせるものとなるでしょう。定期テスト前、講習、単元のまとめ、自宅学習など様々な環境でも使用可能な教材を使うことで総合的な学習環境を作っていきます。

講師紹介

稗田真清

中等部統括
担当:
数学、英語、理科

経歴

国立第二小学校
国立第一中学校
都立三鷹高等学校(半年で中退…)
東京工業高等専門学校(国立高専)
山梨大学工学部生命工学科(編入学)
山梨大学大学院
医学工学総合教育部生命工学専攻

座右の銘 『まけるな!』

趣味

  • 体を動かすこと(器械体操、水泳、剣道、サッカー、ボクシングなど経験)
  • 書道(小学5年のときに小学6年のコンクールに出てしまったが、銀賞!)
  • 驚かすこと(よく言えばサプライズ) (週に一人ぐらい塾生が飛び上がっている)

一言

楷塾は厳しいことで有名だそうです(生徒談)。 課題もテストも絶対的な量があり、その完成度を上げるために惜しみなく時間を使う塾の姿勢は私が在籍していた20年前から変わっていません。

そんな中で、私が生徒にできることで大切にしていることのひとつは、一緒にいるということです。一緒にいる時間が長いほど、その子が何を考えているのか、先々にどんな不安を抱いているのか、今後どんな人生を歩みたいのか、様々な事柄に気づき、語り合うことができます。(私が歩んだ独特な月日は子どもたちに好評です。笑)

そんな中で、私が生徒にできることで大切にしていることのひとつは、一緒にいるということです。一緒にいる時間が長いほど、その子が何を考えているのか、先々にどんな不安を抱いているのか、今後どんな人生を歩みたいのか、様々な事柄に気づき、語り合うことができます。(私が歩んだ独特な月日は子どもたちに好評です。笑)

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